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21歳の女子大生

モラトリアムの延長に必死なごくごく一般的な大学生の日記

将来のためという理由の意味のなさ

中学生になった時、担任の先生は私たちに勉強する意味を教えてくれた。

"いつか、君たちが何かをしたいと思ったときに、そこにたどり着くためには手段が必要だ。その手段になる可能性が最も高いのは勉強だ。しかし、必要と思ってから勉強をしたのでは遅すぎる。君たちはその何かを手段がないために諦めなければならない。だから、今、いつかのために勉強しなさい。"と教えてくれた。

 

大学生の私にそのいつかはまだ来ていない。がむしゃらに勉強した結果、手段の勉強が目的そのものになったからだ。勉強は楽しい。私一人では到底知ることができなかったことを知ることができる。勉強というか、学問という言い方がいいかもしれない。

 

"将来のため"という言葉は非常に強く、ぼんやりと簡単に使えるので氾濫しまくっている。確かに先生の言葉は中学生の私を学問へ導いてくれた。それは、中学生の私が純粋だったし、勉強と部活などしないといけないことが少なすぎたからだ。しかしながら、現在何かを始めるときに理由としていつか来るいつかのためという理由は効力を持たない。極端な話、どんなことでも将来のためにつながる気づいた。将来のために何とかを始めるなんて言ってたらきりがないのだ。だから、将来のためになるから、という理由で勧めるのはやめたし、それだけの理由しかなく続けるのもやめたし、それを安易に使う人の言うことも信頼しなくなった。逆説的に言えることは、全部将来のためになるので、楽しそうとか、やってみたいと思ったことは全部やったらいいと思うのだ。つまり、物事を始めるときにたいそれた理由なんていらない。始めてみたいという気持ちだけで十分なのだ。