日記

モラトリアムの延長に必死な大学生の愚痴

将来のためという理由の意味のなさ

 

中学生になった時、担任の先生は私たちに勉強する意味を教えてくれた。

"いつか、君たちが何かをしたいと思ったときに、そこにたどり着くためには手段が必要だ。その手段になる可能性が最も高いのは勉強だ。しかし、必要と思ってから勉強をしたのでは遅すぎる。君たちはその何かを手段がないために諦めなければならない。だから、今、いつかのために勉強しなさい。"と教えてくれた。

 

 

大学生の私にそのいつかはまだ来ていない。それは悪い意味ではなくて、がむしゃらに勉強した結果、手段の勉強が目的そのものになったからだ。流行りに逆行するが、勉強は楽しいと私は思ってきたし、思っている。私一人では到底知ることができなかったことを知ることができる。勉強というか、学問という言い方がいいかもしれない。

 

話を戻して、

"将来のため"という言葉は非常に強く、ぼんやりと簡単に使えるので氾濫しまくっている。確かに先生の言葉は中学生の私を学問へ導いてくれた。それは、中学生の私が純粋だったし、勉強と部活などしないといけないことが少なすぎたからだ。しかしながら、現在何かを始めるときに理由としていつか来るいつかのためという理由は効力を持たない。極端な話、どんなことでも将来のためにつながる気づいた。将来のために何とかを始めるなんて言ってたらきりがないのだ。だから、将来のためになるから、という理由で何かを他人に勧めるのはやめたし、それだけの理由しかなく続けているものはやめたし、それを安易に使う人の言うことも信頼できなくなった。すごく生きづらそうだし、頭でっかちな考え方かもしれないが、逆説的に言えることは、全部将来のためになるので、楽しそうとか、やってみたいと思ったことは全部やったらいいと思うのだ。つまり、物事を始めるときにたいそれた理由なんていらない。始めてみたいという気持ちだけで十分なのだ。もっと簡単にいうなれば、未来よりも今のことを見た方が人生楽しいのではないだろうか、ということだ。

 

あくまで、これから話すことは、私個人の感じたことであって、必ずしも一般ではないかもしれない。しかし、日本の教育を10年以上享受し、旧七帝大に所属するそこそこ勉強してきた私としては子供に未来を見させすぎなのではないかと思うのだ。良く言えば、良い未来を描いてそこに向かって努力しましょうね、ということなのだが、未来が描けない子供だってたくさんいる。私はそうだった。幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、高校校でも、「あなたの夢は何ですか。」と聞かれ続けた。その質問で、夢を描けない自分が恥ずかしかったし、同時にそんなのわからないじゃないかと思うほどには幼くなかった。私はそういう時に今何をしたいか、を考えた方がよかったと感じる。日本の教育は子供をなめすぎていると思うのだ。

 

生きるための力は当然必要だが、それを子供に持たせたがる人は大人になっても生きる力のない人なんだと思う。