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21歳の女子大生

モラトリアムの延長に必死なごくごく一般的な大学生の日記

将来のためという理由の意味のなさ

中学生になった時、担任の先生は私たちに勉強する意味を教えてくれた。

"いつか、君たちが何かをしたいと思ったときに、そこにたどり着くためには手段が必要だ。その手段になる可能性が最も高いのは勉強だ。しかし、必要と思ってから勉強をしたのでは遅すぎる。君たちはその何かを手段がないために諦めなければならない。だから、今、いつかのために勉強しなさい。"と教えてくれた。

 

大学生の私にそのいつかはまだ来ていない。がむしゃらに勉強した結果、手段の勉強が目的そのものになったからだ。勉強は楽しい。私一人では到底知ることができなかったことを知ることができる。勉強というか、学問という言い方がいいかもしれない。

 

"将来のため"という言葉は非常に強く、ぼんやりと簡単に使えるので氾濫しまくっている。確かに先生の言葉は中学生の私を学問へ導いてくれた。それは、中学生の私が純粋だったし、勉強と部活などしないといけないことが少なすぎたからだ。しかしながら、現在何かを始めるときに理由としていつか来るいつかのためという理由は効力を持たない。極端な話、どんなことでも将来のためにつながる気づいた。将来のために何とかを始めるなんて言ってたらきりがないのだ。だから、将来のためになるから、という理由で勧めるのはやめたし、それだけの理由しかなく続けるのもやめたし、それを安易に使う人の言うことも信頼しなくなった。逆説的に言えることは、全部将来のためになるので、楽しそうとか、やってみたいと思ったことは全部やったらいいと思うのだ。つまり、物事を始めるときにたいそれた理由なんていらない。始めてみたいという気持ちだけで十分なのだ。

 

 

生産性のないことは悪なのか

どんな行動、時間に対しても、意味や目的を求める自分に気が付いた。

 

ネットを開けばメールの確認、アマゾンで必要な用品の注文を行い、テレビを見るときはダイエット効果があると言われるストレッチをして、通学通勤時間は睡眠、反省の時間にし、書店では学問関連、資格関連の本のみを漁り、車に乗れば時間節約と思い、自転車を使えば倹約と思い、歩けば健康のためと思い、お風呂ではダイエットのためのマッサージを行い、休日にはアルバイトを詰め込んでしまう、睡眠は記憶の整理のためと思う、、、

 

どんな小さな行動や時間にも目的を求め、有意義な目的を作られない行動や時間、例えば電車が遅延した時の待ち時間や、やる気が出ない時にボーっとする時間、眠るまでのお布団での時間、服を買いに行ったのに気に入る服がなかった日、しょーもないyoutubetwitterを見る時間、会員登録などの整理をする時間、去年買った流行おくれの雑誌を見つけた時(なんでこんなもんをかったのかと悔やむ)、、、の後にはしんどくなるくらいなぜか罪悪感を感じてしまう。

なんにもしない休日は休憩だ!と思い込むけれど、夕方には生きてる価値がないんじゃないかなんて思ってしまう。

 

じゃあ、がむしゃらに何か最近はやりの意識の高いことをしろよと思うのだけど、それはそれでしんどくて腰が上がらないのだ。

思い返すと、小さい頃の休日は寝転んで空を見ながら空想して、そのまま寝てしまい、起きたら夕ご飯なんてしょっちゅうあった。

その時は何も考えていなかったけれど、今はその思考自体が精神の成長のためだったのだと思ってしまう。

空を見る、目をつむるより、寝るか、本を読むか、携帯で調べ物をするか、漫画を読んだりする方が良い気がしている。だから、新聞の投稿でよく見る「最近は電車の中でみんな携帯を見ていて悲しい気分になる。昔は本を読む人や風景を眺める人がたくさんいたものだ。」という文に対しては、そう思うなら、君だけそうすればよいじゃないかと思う。何故、他人の行動も自分と同じにしてほしいと思うのだろうかと思ってしまう。とてもひねくれてしまっている。

あの頃に戻りたいまでは思わないけれど、なんとなく生き急いでいる気がしてしんどいのだ。何とかしたい。そこで

どうしてこんな思考回路になったのか考えてみることにする。

 

日々の状況を以下のように一般化する。

 

することがないから、何もしない。→1

すること(生産性あり→2、もしくはなし→3)があるのに、何もしない。

することがないのに、何か(生産性あり→4、もしくはなし→5)する。

することがあるから、何か(生産性あり→6、もしくはなし→7)する。

 

1、2、3の状態だと私は確実に苛立ちを感じる。何もしないことは悪なのだ。休憩という目的は睡眠と食事で使い果たされている。

5、7も焦りや不安を感じる。

つまり、充実感を感じるのは4、6だけだ。

それ自体が必要かどうかに関わらず、生産性のある行動だけが今の私の中で正義なのだ。

じゃあ、生産性のあることは何だろうか。それは有意義な目的があることだと思っている。だから、逆に有意義な目的があることは私の中では正義になれるのだ。

 なんだか、機械みたいだなと感じてしまった。

私、機械みたいだ。

 でも、機械には勝てない。機械の方が私よりもよほど優秀で、一度も間違えないし、効率よく長時間働き続ける。

じゃあ、私の存在意義は何だろうか、、、、

 

 

わかった。今の私は生きてていい価値が欲しいのだと。

もしかしたら、こういう人は案外多いのかもしれない。

 

 

私と性との出会い

2017.3.17お昼過ぎ大学図書館、ヘンリー・W・ベイツ著「アマゾン川博物学者」片手に21歳の私はぼんやり考えていた。ヘンリー・W・ベイツさんは若干23歳でアマゾンへ行って11年間研究していたので、私もとてもまじめな気分だった。たとえ、机一つ離れた数式を書いてる大学生が奇声を発して笑っていても。考えていた。生命について。

 

生命はなぜ誕生するか。生命は何のために存在するのか。

 

小学校、中学校、高校、そして大学と私はまじめに勉学に取り組んできた。だから、私は知っている。生命の誕生、維持の最大の目的は新たな生命をまた生み出すことだと。

つまり、子孫を残すことだ。

 

子孫を残すこと。大切なことなのでもう一度言う。

 

子孫を残すこと。

 

これが我々ヒトも含む全生物の生きる理由だ。

なんなら、たいていの生物の行動は子孫を残すためという理由で説明できる。

過去から今へ、命がつながっていると考えると、とても自分の命を尊く感じる。

ありがとう、世界のみんな。

そして、子孫を残すためには有性動物であり、雌雄同体でない限り、オスとメスが物理的に出会い、分子レベルでも物理的に出会わなければならない。

オスとメスが出会ってワオワオしないといけない。

 

ワオワオしないといけない。大切なことなのでもう一度言う。

 

ワオワオ、またの名をSEX。

 

今や、友人大学生達はワオワオしまくってるし、隣の部屋からワオワオの木漏れ日がさしてきてもへっちゃらだ。なんなら、友人(男)から亜鉛が如何に素晴らしいかを説明されたこともある。男じゃねーよ、なんて思いながら今度使ってみるって答えた。使わねぇよ。

おんなじやつからゴムの良し悪しも聞いたことある。これは最高とか、これはまぁまぁとか。だから、使わねぇよ。

しかし、これを理解し、知ることは難しく、しかもそれを受け入れるときの子供はとても多感な時期である。SEXは思春期の子供にとってはとても刺激的な言葉だ。

だから、これをヒトは時間をかけて学ぶ。小学四年生あたりまでは子供がどうやってできるかなんて知らない。だんだん知っていく。

私も日本という国の教育で自然と学ぶはずだった。

ここまでが導入、とても真面目に書いた。

 

時は戻り、加藤小学四年生。

私は正義感が強く、いじめっ子に、相手がいじめだと思ったらそれはいじめなんだ。という名言を言い放つくらい正義感が強かった。顔面偏差値はそこそこ、勉強もそこそこ。

ジャングルジムのてっぺんからジャンプして脳震盪起こすくらいには普通の小学生だった。

そして、スマホもなくネットから子供はまだ遮断されていた時代だったし、保健体育の教科書でまだワオワオ部分はぼかされていたから、私はワオワオのワの字も知らなかった。

ある日、なぜか純真無垢な加藤少女はクラスでナンバーワンおとなしいA子の自宅に招待された。

何にも考えずに遊びに行った。

Aこの家に着いて、彼女がその辺に生えている苔をプランターで育てている(しかも名前がついていた。)のを見て、あれっって思った。そしてまさかのone on oneだった。

私たちone on oneで遊ぶほど仲良かったけなと。とりあえず、なんとなくのところで帰ろうと思っていた。

 

アニメを一緒に見た。深夜アニメなんて見たことなかったからとても面白かったのを覚えている。

たしか、darker than blackだったと思う。とても面白いアニメなので見た方がいい。

 

そしてA子が唐突に言う。「私の両親は高校教師なの。だから、生徒から没収した漫画があるの。」と。

私はとても喜んだ。漫画が大好きだったから。

そして、A子言う。「この漫画かとうちゃんにあげる。」と。

その漫画はきれいにカバーがついていた。その日は適当にしゃべって、そのまま帰宅した。帰宅後、私はとてもワクワクしながらその漫画を開いた。

 

 

 

 

 

ワクワクしながら見た漫画には、男と男のワオワオがいっぱいあった。

 

 

 

BL漫画だった。

 

私の知らないワオワオワールドがそこには確かに存在していた。

 

 

ちゃお(漫画雑誌)のキスシーンでさえ頬を赤らめて、なんだか気恥ずかしくなってすぐ次のページをめくってしまうくらいに、そしてまたキスシーンのページに戻って白紙を置いて模写しちゃうくらいに、幼い小学四年生に

男(眼鏡、仕事できる、ツンデレ、力は弱い上司)と男(イケメン、なんでも口に出す、押しては押しまくる部下)のワオワオは衝撃的だった。その日の夕ご飯では両親の顔がぼやけて見えた。

男のあそこってあんな風に別生き物みたいに変化するのとか、男と男でこういうことをするのは普通なのかとか、衛生的に問題ないのかとか、いや男女の場合はむしろどうやってするんだとか、ってかクラスナンバーワンおとなしいA子は全くおとなしい子ではなかった事実とか、高校生から没収した漫画がもっと見ちゃいけない小学生の手に渡ってる不思議とか、未だかつてないもやもやを私はその日から抱えた。

その漫画をどうしたかは覚えていない。

 

その何週間か後に室内に干していた洗濯物を取ろうと思って、座布団の敷かれた椅子の上に立った。その瞬間つるっと滑った。ケツが割れるくらい痛かったが、そこで生まれた出会いは私のもやもやを砕いてくれた。

座布団と椅子の間に、ザ・テレビジョンが挟まってた。

ただ、表紙と中身がつながってなかった。

表紙をとると出てきたのは、セクシーすぎるお姉さんだった。

中身はエロ本だった。中学二年生思春期真っただ中の兄のエロ本だった。

カモフラージュで表紙だけ変えたエロ本だった。

どうでもいいがザ・テレビジョンの表紙は草彅剛だった。

そのエロ本を熟読した。正しいか正しくないかわからないが、その時の私のモヤモヤを解消するのに必要なことを教えてくれた。

あぁ、そうか、なるほど。あぁ、なるほど。あぁ、、、、そうなのか、、、

熟読した後、お母さんにエロ本を渡した。中身は一瞬見て閉じたと言った。

 

その日から私は大人になった。ちゃおのキスシーンはガン見出来るようになった。ドラマで時々ある朝チュンも平気だった。保健体育の授業なんて寝てた。だって、私は知っているから。

 

 

その後、高校生になった私は学校でBL漫画を読んでた。確か、小説家(母性くすぐる系)と編集者(イケメンエリート)のワオワオワールド。夢中だった。

背後から、先生に没収された。

そのときよくわからないけど輪廻を感じた。

 

終わり